時代は変わっても社会構造は似ているのでは?

 魯迅の小説「故郷」にはたしかこんな内容があったと思う。(間違っていたらすみません。)
 親同士は身分の差があり、昔のように仲良くはできない。しかし、子供同士は仲良くしている。

 日本で昔といってもずっと昔だが、身分の高い家の子供が犯罪を犯したとしても、そもそも罪になったかどうか、なったとしても相手を黙らせたり殺したりしてもみ消していたかもしれない。まあ実際どうかは分からないが。

 では、今の日本はどうか、さすがに明確な身分制度はなくなっていて、学校も大衆化されている。学校では、昔や今社会で力のあるポジションを占める人が親や親戚の子供とそうでない子供同士が接することもあるであろう。
学校外では、親や親戚の力でその子供が社会で力のあるポジションにつくかもしれないし、あるいは人脈や金があるので好きなことができるということで、結局実力勝負をしても、情報とか好きなことができ親や親戚が誰かということで、親から子へ継承が行われるのかもしれない。その辺がどうかは各自考えてほしい。

 今の時代、情報化社会で、それでも昔と比べて有力者の家系の子供が問題を犯しても、実際どうしているかは知らないが、昔よりもみ消しにくい環境にあるだろう。それでも問題を犯しても、裁判とかその他いろいろなところで有利に物事が動くようになっているのかもしれないし、実際どうかは分からない。

 有力者の場合実際どうかは分からないが、昔でも争いはあっただろう。歴史を見ればそういう例はあるであろう。
今の時代だって、見せかけだけかもしれないが、実際どうかは分からないが、有力者同士争っているのではないかと思うような例もあるであろう。
逮捕とか失脚とか、そういうふうなことって実際どうかは分からないが、昔も今とやり方は違っても、そういうたぐいのことってあったのではなかろうか。
有力者が問題を起こした場合、それがどうなるのか、でてこない、騒ぎが起こるが静まる、問題として本人に打撃が加わる、そういうことって実際どうかは分からないが、昔も今もありそうに思うのだが。

 現代において、有力者の子供の場合って、見栄えがいい学校に特に行かなくてもそれなりにどうにでもなりそうな雰囲気である。有力者の子供の場合それなりにどうにでもなるのは実際どうかは分からないが昔もそうであったような雰囲気ではなかろうか。
 現代において、学校って被支配者のためのもので、被支配者を支配するための道具になっているのではなかろうか。
成績とか、学校ごとの見栄えとか、そんなので分け、一定の情報や価値観や行動様式を刷り込み支配するのが学校の役割ではなかろうか。
ただ学校がある以上そこへ有力者の子供も行く、そして、仮に大きな事件や事故の被害者でも加害者でもなった時に情報化社会で情報としてでるかもしれないということだろう。
しかし、実際どうかは分からないが、そんなので情報がでるのは本当の意味での有力者ではないのかもしれず、本当の意味での有力者なら何が何でも情報を隠せるのかもしれない。
何が起きても親から子へ継承が決まっているのかもしれないし、問題があったら有力者内での潰し合いや自分のサイドを優位にするための材料になるのかもしれない。

 現代と昔について考えてみた。



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